商W48年5月27日 朝の御理解
第25節 信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。
大きな信心と言うのは、どのような場合でも迷いが起こらない信心を、大きな信心ということに、まあなるのじゃないでしょうか。大きな信心と言うのは、どんな場合でも迷いが起こらない。ね。そういう、例えば信心が、次第に言うなら大きくなって来る。私個人の願いが、人が助かるというような事になり。言うなら(天下国家?)のこと。天下国家の事まで、真心を持って祈れれるように段々なって来る。
ただ、祈りの言葉というものは、どんな大きなものでも言えれるもんだ。ね。世界真の平和と。総氏子の身の上安全いうような事を毎日、ならお唱え言葉の中に唱えておる。これが、もう切実に、止むに止まれん、例えば時分の事としての願いです。ね、そういう願いが出けるように、段々お育てを頂き、大きゅうなって行くと。ね、だからその根本になるものは。大きな信心とはどのような場合であっても、迷わんで済むほどしの信心が、次第しだいに大きくなって行くというのでなからなければ、大きな信心とは言えない。ね。もう大きなおかげをお願いする事が大きな信心のように思うたら大間違い。ね。
ただし、段々その大きい願いがね、切実になって参ります。例えて申しますと、シナに(かんしん?)ですかね、という。しんかんですかね。かんしんですかね、やっぱり。かんしんという人がありました。この人は、もうそれこそ、天下を治め、天下を取ろうというほどしの大望を持った人であった。ね。かんしんの股くぐりと言うて、本当に身分の低い円中からです。あざ笑われたり、ね、またこんなにしても、お前は腹立てきらんのかと言うて、俺の股くぐれと言うて、その股をくぐらせられたり、それを、もう黙って股をくぐったと言うのですよ。
ね、かんしんが股をくぐる( )。ね、( )天下を取るほどしの人になったと言うのです。ですからその、本当にそういう願いを持って、えー行くという事もですね、有り難いです。確かに迷いは起こらんです。私共もそれを思うです。もう本当に、(古代妄想狂?)じゃなかろうかと思われるくらいに、自分な大きな願いを持ってるです。ですからね、どんな場合であっても、どういう事になってもです。こんな大きな願いを立てておるのだから、このくらいな事は、もう当たり前というような、平気で例えば受けて行けれるですね。大きな願いを本当に持っておったら。
ね。ただです。何か信心しよりゃ何か良かこつがあるじゃろう。それこそ宝くじが当たるような事を願うておるような、そういうつまらん、言うならば大きなようであって、大きくはない信心。いわゆる、( )のつかみ取りに、の木になるなと仰るような。ね。そういうのが大きいのではない。そういうのは、もう一番つまらん信心。ね。神様の絶対間違いなさを段々分かれば分かるほどです。私共が本当に大きな願いを立てさせて頂いたらです。
ね、昨日も私が申しましたように、神様に、どうぞ神様に一番の忠義者にお取立て下さいといったような願いを、二十数年前、私はお取次ぎを頂いて親先生にお願いしたことがあった。神様の一番の忠義者にお取立て下さい。そういう、例えば願いを持ってのですから、その中間の苦労というか、修行ぐらいは、もう、もう当たり前の事だとして受けられるんです。ただ自分の、ね、身さえ助かりゃええ、自分の家だけ助かりゃええ。信心しよりゃええ、( )、宝くじが当たるような、言うならばそういう浮薄な考え。
ね、そういう信心ではです、どういう、なら大きな事を願っておっても迷いが起こるです。これほど信心するのに、どうしてこげな事が起こったじゃろうかというように、迷いが起こる。だから先ずは、迷いの起こらん信心を、大きな信心の土台とするのだ。ね、神様の間違いなさというものを、例えば昨日の御理解のように、一分一厘間違いのない御取次ぎの働きというものをです、私共が日々感じて行けれる信心。
それが、ならそこで停滞しておって良いという事ではない、それが一年一年有り難うなって行き。一年一年おかげが大きくなって行き。一年一年自分の願う焦点というものが、ね、大きく育って来るという事でなからなければならんのです。ね。ですから、先ずは迷いの起こらんで済む、ね、信心を頂かなければならんと言うのです。今朝方、私お夢を頂いた。それが、昔の酒屋をしておった時分である。大きな、昔はあの、( )をこう据えて、酒屋をズラッと並べます。その端に、焼酎がめが据えてあった。
四頭入りの焼酎がね、ちょうどそこの、会堂の前の石庭の隅に置いてあるでしょう、あの大きな坪が。あれが、四頭入りの、昔の酒がめに使ったり、私共はあれを、焼酎がめに使いました。あれの中に、( )のようなフタがあって、その周囲に( )を炊いてですね、きちっとこう、気が抜けんようにして、そして上からしぶがめで括って。そして、下からこうひねりをつけて、引くようになってるんです。ちょうど、まあ私がまだその酒屋をしておる時分のようなお夢なんです。
もうその時分は、そういうかめに、いちいち焼酎を移さずに、( )のかめ、も、がありましたから。もうそれから引くような時代でしたがね。その、焼酎がめに使っておった、そのかめ、もう飾りにこうやって飾ってあった。それをちょっと、こうひねったら、出てくるんです焼酎が。あっちゃあ、これは焼酎が入っとったじゃろうかと思うてから、上のフタを取ってみたら、もういっぱい焼酎が入っとる。まあ、これは入れてから私は忘れとったじゃろうかというところで目が覚めた。これは、もういつのじゃったじゃろうかと思うて。
もちろん、上にちゃんとふがしてありましたから、気が抜ける事もない、良い焼酎です。最近、この前の月次祭に43度もある、色々な熊本の焼酎、お三宝一台頂いて、お供えをさせて頂いた。ね、神様から、その何日か前でしたか。ね、有り難き、勿体無き、恐れ多きを、三酒という事を。有り難き、勿体無き、恐れ多きとこう、内容を教えておられるが、例えば日本酒なんか、お神酒に使う訳ですけれども。まあ、せいぜい15度か16度です。ね。
ですから、例えば同じ有り難いと言うてもです。真に有り難い、涙がこぼれるほどに有り難いという感動が湧いてくるほどしの有り難い。もう、暑い、寒さを感じんほどしの有り難さ。それを、もっともっと、濃度の、ね、いわゆる度数の高い有り難い、勿体無きを頂かなければいけないといった意味の、その御理解を頂きましたよね。ははあ、してみると、もう合楽にはこれ以上の有り難いものはないかと思いよったらですね、まあだ忘れられておった。まあだ、この坪には四頭もの焼酎がいっぱい入っておった。これは、まだずいぶん、これを例えば皆さんに分けてあげれる事になりゃあ、もっともっと、ね、本気で有り難くなれれる人が沢山出けるぞというような感じですよね。
皆さん、有り難いというのは、もう限りがないのです。ね、暑い、寒いという時に、暑さ、寒さを感じんほどしのもの。それが、真に有り難いです。真に有り難いと思う心、すぐにみかげの始めと仰るおかげになるんです。はあ、信心しよるとに、じゅつない事じゃあると言うて一生懸命修行しよるというのは、まだ本当の有り難さじゃない。信心で言われる真に有り難いと言うのはです。苦しさも、苦しさと感じんほどしの有り難さを、真に有り難いと言うのです。ね。
そこでです、ならそういう有り難いというものを頂かせて頂く為には、どういう信心をさせて頂いたら良いか。ね。もう、まあ言うならば私が、もう一番修行の真っ最中。もう、ないない、一切もうないない尽くしの時分。けれども、その日、その日のおかげを頂いておるという事が有り難い。もう、今日食べる物がなかっても、明日は明日としてです。ね、お礼を申し上げて、今日一日頂けたという事が有り難いとお礼を申し上げておるような時代。そして、明くる日は明くる日に、また的確にそれなりの物を頂けておったという、有り難いという時代。
ね、そういう時代ですから、例えば朝参りなどをさせてもろうて、えー、御祈念前に長いローカのお雑巾がけなんかをさせてもらう時に、もうそれこそ足はアカギレでいっぱい。勿体島ばっかりの、土居までぐらい歩いて行く間はもう、足が踏みたてられんぐらいにあった。下駄は血でもうベトベトになりよった。それでも、まあ勿体島あたりまで歩くと、もうそれが慣れて歩けれるようになる。それを、あのお手洗い鉢で足をジャーっと血を流し、洗い流しといてから、すぐその、お掃除にかかる。もう、本当ですよ。暑いような涙ってのは、あんなモンだろうと思うんですけれども。
もう、雑巾がけさせて頂いとる、この手の甲にです。もう、暑いような涙を感じよりました。もう泣きながら、有り難うございます、有り難うございますと言うて御用させてもらいよった。ね。もうあげん椛目の大坪さんのごと、あげん一家中であげな信心しござって、どうしてあげな貧乏せんならんじゃろうかと言う人もありましたでしょうけれどもです。ね。金光様の信心っちゃあ、本当にどうしてあげんいつも拝まにゃんじゃろうかちいうように、もういつも私共の御神前には拍手の耐えた事のないぐらいに、家族中の者が何かと言や、御神前に出て拝みますから、柏手の音がしよった。横の道を通る人がそれを感じるくらいであった。ね。
そういう時代の信心の、有り難い、勿体ないがまあだ合楽には残っておる。忘れられておった。まあだこの焼酎がめいっぱい入っておる。これを、皆さんにくんで差し上げれたら、皆さんも有り難いなれれるだろうという、なれれるという、今日はお知らせのお夢を頂いたように思うた。そこで私は、あの、起き上がってから床の上で、そんなら、そういう程度の高いというか。もう本当に真に有り難いといったような心の状態というものには、どういう心の状態で信心をさせて頂いたらおかげになるだろうかと思うて、御祈念させてもらいよったらね。こんぺいとうの坪という事を頂いた。
あの、話がありますでしょう、こんぺいとうの坪という話が。ね。こんな坪にこんぺいとうがいっぱい入っておる。ですから、少しずつ取り出せば何ぼでも取り出せるんだけれども、人間が欲が深いものですから、坪の中手突っ込んどいてから、もうガシ握りしとる。こうやっていっぱい、握られるしこ握っとる。だから、自分の手が抜けんでおると言うのです。これでは、いくら頑張ったっちゃ、こんぺいとうは食べられませんよ。少しずつ頂いて行ったら、底までみんな頂けれるのに。はあ、これだなと私はだから思うた。
有り難い、本当の意味において、有り難くならせて頂くという事はです。お互いがね、今日は大きな信心、大きな信心と言うから、何か信心しよりゃガバッと、いっぺんにおかげ頂く。ほんに何時になったならおかげ頂くじゃろうかといったような考えでは、絶対おかげにならんです。ね、夢見とる、そうげな。ガバーッと何か信心しよりゃです。百万、例えば百万、今時は百万じゃないでしょうね。宝くじ( )五百万いうものがあるでしょうけれどもですたい。それこそ、宝くじでん当たるごたるおかげを、おかげと思うておるような大きな信心では、もう必ず迷いが来ます。
いつになったら、家はおかげ頂っきるじゃろうかねえちゅうごたる、家、いくら家族で信心しよっても、そげな考え方の信心では絶対、本当のおかげにはならんです。もう、とてもとても、今日一日こうやって過ごさせて頂いたという事。今日一日食べられたという事だけでも、有り難い事じゃないですか、勿体無い事じゃないですかとです。日に日に、刻々です。ね、言うならば、こんぺいとうの少し、少しを頂きながらです。ね。有り難い事じゃなあ、勿体無い事じゃなと。神様のお働きの間違いないのに恐れ入ってしまうなと、日々です。
私共がお生かしのおかげを頂いたり、または今日一日、ね、着ること、住まうこと、または食べることの上にでもおかげを受けておるという、その事実をです。私共がおかげと感じれれるような信心が積もり積もって、大きくなって行くのです。こういう信心なら、もう絶対、いわゆる偉大なおかげに育って行くでしょう。日々が有り難い、勿体無い。ね。皆さん、合楽にはまあだです。私は24~25年、ね、になりますか。ね、その頃、修行の真っ最中といったような時分にです。あの時分の有り難いこそが、本当の真に有り難いと言うんであろうか。それは、焼酎の言うなら43度ものの焼酎にも匹敵するような有り難いものであったろうか。
暑い時に暑さも感じん、寒い時に寒さも感じん。苦労を苦労と感じぬ。今日、ね、今晩まで一家中が頂けたという事が有り難い事じゃないか。明日は明日、さあ、お礼を申して休ませて頂くぞといったような時代にです。ほんに、何時になったなら、ね、楽に食べれるようになるじゃろうか。いつになったなら、お金が貯まるごつなるじゃろうかて何てこと考えておらんもん、全然。もう毎日、毎日が有り難うして応えん。ね、そこに一分一厘間違いのない働きを、明日は明日でまた、ちゃんとお繰り合わせの中に食べさせて頂く事も出けた、必要な物ならば最少限度ではあっても、おかげを下さったという事実をね、私は踏まえての信心からでなからなければ、大きな信心には育って行かん。迷いがなかもん。どういう事であっても。
ね、その間には兄弟三人、七ヶ月の間、本当言うたら私は、兄弟は四人の葬式をしとるです。けれども、これは家内の兄ですから、けれども、やっぱし私の肩にかかってくるほどしの事だったんです、引き揚げ者ですから。ね。七ヶ月の間にそういうような、私はいつも皆さんに兄弟三人のと、こう申しますけれども、七ヶ月の間にあれだけの信心しよって、どうしてそういう不幸が続くじゃろうかという時です。ね。なるほど、叩かれりゃやっぱり目の前が真っ黒になるようにあったです。例えば弟の戦死の広報なんかを受けた時にはそうだったです。
けれども、それをね、どういう、どういう御神意、御神慮からこういう事になって来んであろうかという事に、もう一生懸命なっとるです。そして、それはもう理屈ではない。ね、私は御本部参拝をして、帰りに、ただただ有り難い、有り難いで帰って来たというお話がございますでしょう。そういう、難儀の一番、言うなら悲しいとか苦しいとかというの最高潮の時であってもです。私の心の中には、神様を求めて止まない。御神慮を分からせて頂きたいという一念。そこから、理屈ではない有り難いというものに触れておったという事なんです。
ね、それが、なら今日は私が申します。大きな信心とは迷いの起こらないという事です。もう迷いのまの字も起こっとらんもん。ますます、その線を境に信心は熱烈化して来とるです。ね。私は信心とは、そういう力を与えられるのが信心だと思うですね。それに、例えばなら私共がです。ね、大きなおかげばガバーッと頂いてから、もう長うしよるばってん、いつになったなら、おかげ頂くじゃろうかといったようなね、思い方の信心。いや、そういう思いが心の中にあるような事では、いつまで立っても同道回りでしょう。
日々、今日、今日をです。ね、おかげを受けておるという事実を、事実としてです。有り難いと、心の底からお礼を申し上げれるような信心こそが、こんぺいとうに坪がいっぱい、坪の中にこんぺいとうが入っておる。それを、ね、じょじょに少しずつ取り出して頂いておるようなものじゃないでしょうか。それを私共はです、ね、いわゆる我欲で中に手を突っ込んで、いっぱい掴んでおるから、さあどっこい、ね、出そうと思うても、その手も出らんといったような事になって来るんです。ね。どうして良いじゃ分からん。手がない、手が出らん。ね。
こういう事の信心から、お互い本当の信心に脱皮して行く、脱却して行くところのおかげ。ね、そこから大きな信心が目指され、大きな信心が頂いて行けれるようになると思うですね、どうぞ。
末永信太郎 ( 7月14日 )